自分の気持ちを整理し、問題の本質を見定めるため文字にしてみます。現在書きかけで雑然としていますが、少しずつ内容を増やしながら整理していく様にします。
自分自身、どういう状態になれば満足するのか判らなくなっています。
自分の思い通りにならないことが多く、その度に不機嫌になり多くの人間から信頼を失い孤立していきました。決して孤立することを望んでいないのですが、第三者から見ると「好き好んで孤立している」様にみえることも多いようです。
多くの人が高校~20代前半で親しい友人を作り、中高年になってもその付き合いが続いていると言います。
私の場合、いろいろ理由があるのですがその時期にうまく友達を作ることが出来ませんでした。幸い、「いじめ」に遭うことは無かったのですが、上辺だけの付き合いの域を出ないまま卒業し、疎遠となってしまいました。
今でもクラス会などがあれば、特に外されることも無く普通に仲間に入れて貰えますが、多くの元同級生達と境遇が違うこともあり、見えないバリアを感じてしまい「その場限りの付き合い」で終わってしまいます。
これは「悪かった自分自慢」ではなく、中年以上になって自分の人生を振り返って初めて気づいた、自分のやってきたことに対する気付きの記録です。特に小学生の頃、はっきりと「悪いことをしている」という自覚も無く他人(特に女子)に「加害行為」をしていたと思い当たることがあります。中学生以降になってからでも、大人になって振り返ると厳密にいえば「偽計業務妨害」や「器物損壊」に該当する様な行動があったことに思い当たりがあります。
成人してからは「ルールに反した時のペナルティ」を意識して、「犯罪にならない範囲で、できるだけ人を困らせよう」といったことを考えていた様に思うことがあります。背景には精神的未成熟からくる「自分さえよければよい」という他人への思いやりの欠如や規範意識の低さがあると思われます。ちょっと過激な表現を使えば「心情的テロリスト」(実際にテロ行為を行う訳ではないが、テロ行為が悪いことだという意識が希薄で、単に罰せられることを恐れてしぶしぶルールに従っている者)ということもできます。
いずれの場合でも、「直接の利益を目当て」に行う窃盗や詐欺の様な行為では無く、「他人を困らせる」や「世の中の合理性に刃向かう」といった「愉快犯」的なものであった様に感じます。一言で言えば、見出しにある「誠実でない」活き方の具現化であると思われます。
いまさらですけれど、この2つは人生をダメにする最凶のものではないかと思います。これらの問題は産まれつきの性格という面もありますが、親の教育方針や家庭環境などの影響も多きいものと思われます。(一部の人については知的な障害やメンタルな病気が関係する場合もありますが、この場ではそのような事例以外の場合を考えます。)
産まれつきあるいは生育環境のせいで、このような問題を抱える人は多いと思いますが、本人や身近な誰かが気づいて積極的に改善する努力をすれば、十分な成果が得られると思われます。
競技系のスポーツ・文化活動や創作活動も「せっかち」や「ものぐさ」は成果を上げるのに障害となるため、克服するモチベーションとなり得ます。私自身、半ば無意識にまた半ば意識的にそのようなものから逃避してきた結果が現状であると感じます。
若者達にはできれば思春期のうちに、遅くても二十代半ばまでには自分にそのような欠点が無いか振り返り、思い当たりがあれば意識的に克服する努力をされることを強く勧めます。
これは「本心」なのか良く判らないのですが、「明示的に」自分の心の中で特定の人を愛した、と自覚できた記憶はありません。異性との交際も経験しているし、長続きしませんでしたが結婚も経験しています。離婚してからも、なんとかもう一度結婚したいという強い願望を持ち、様々なところに話を持ち込み(安くない会費を払った所も有ります)、何度か結婚に近い所までたどり着いたことも有りましたが、いずれも結婚に至る前に破綻しました。
いま振り返ってみると、いずれのケースでもどこか自分の心の中で「拒否している」ものが有った気がします。離婚の時も含めて「相手が居なくなって寂しい」と感じた事は有っても、「自分にとって大切な人と別れた悲しみ」というのは思い出せません。
自分の人生で「愛」の欠乏がいろいろ不具合を起こしたことは間違いなさそうです。
上記の「人を愛せない」問題と密接に関係しているのがこの問題です。
多くの人が家族や交際相手あるいは親友に対して「この人を失ったら生きていけない」と感じるようですが、自分は生まれてこの方はっきりそのような意識を持ったことがありません。もちろん自活できなかった子どもの頃は、自分の生活を支える人、として親に依存したことはありましたが、それ以上の愛情を感じた自覚はありません。
最近はアイドルやアニメなどの「二次元」の人物あるいはペットに対して同様の感情を抱く人も多いようですが、そのようなものの中にも、私にとってはそこまで深い思い入れを持てる対象はいなかった、と認識しています。
一人馴れしてしまったせいか、単独行動に抵抗が有りません。「いつも(同性・異性を問わず)だれかと一緒で無いと嫌」という方も散見されますが、そのような事を感じた事はほとんど思いつきません。
何かするときは、自分でかなり細かい段取りや計画を立てて進めることが多いですが、時に思いつきや気まぐれで大きく計画変更することもあります。自分で計画変更するのは平気なのに、他人と合わせるために自分の計画が変更を余儀なくされると不機嫌になることが多々有ります。
健康なうちはまだ良いのですが、年老いて衰え病気がちになったときに不安は有ります。そのような事態に備えて支援する組織には加入していますし、今の段階ではいずれは「有料老人ホーム」のような施設のお世話になることを前提に考えています
友達がいないのを補うつもりでオフ会に積極的に参加した時期があったのですが、あまり良い思い出がありません。
ケンカや暴力沙汰その他あからさまな迷惑行為をした記憶は無いのですが、二度と誘われなくなったり、オンライン上でのグループからも追放(いわゆるアク禁)されたことも有ります。大抵は強いリーダーシップを持つまとめ役がいるグループで、まとめ役を敵に回してしまったようです。直接リーダーと対立しなくても、特定のメンバーと些細な問題が発生したときも、リーダーの裁定で一方的に私が悪かったことにされて追放されました。
なぜか「受験」だけはそこそこ上手く行って、世間的に言えば「難関校」といわれる学歴を得ていますし、職業も多くの人が就きたいと望むところに就職し、転職することも無くなんとか、間もなく定年が見える所まで勤め続けました。その間、上司と上手く行かないことや、職場の空気に自分が馴染めず苦しい思いをしたことも有りますが、「業績」について厳しくなる前に採用されたことも有り、主流部門から外れサポート的な部署ですが、それなりの待遇で「置いて貰って」います。その代償として「自己実現」を実感する機会はほとんど無く、それゆえ自己肯定感ももてないままです。最近の若者の厳しい雇用情勢を見ると、申し訳ないほど恵まれた処遇です。
周囲の「ねばならない」に振り回されて、自分の本当にやりたいことは何か考えもせずに、与えられる課題をこなしていくことで、「受験」ではそれなりの成果を収めることが出来ました。その一方で、「本当に自分がやりたいこと」をやっている訳ではないので、神経疲労の症状が生じていたと思われます。
「自信とおびえの心理」[加藤諦三、文庫版P242]に、「自信とは甘えを克服できた時に生まれてくる。」という表現がありましたが、私自身は甘えを克服しようとせずに、まさにその逆を活きてしまったことになります。
達成したという(良い意味での)成功体験から得られる自己肯定感とSOCとか悪い意味での(ごまかしの)成功体験とかいろいろ拗らしている感じがします。少し自分の中で整理が必要な様です。
公私両面で人生の目標設定に失敗した、というより目標設定することを忌避し拒絶した代償が自尊心の欠如です。そのような状態に至った原因は前段で述べたことと密接に関わるのですが、要点を単純化すると「目標を設定するとその実現に固執して自分に過大な負荷を課すことになるのではないか」という事に対する恐れであったと思っています。
早い人は十代前半で何らかの「なりたい自分」を思い描く様になり、多くの人は二十代あるいは遅くても三十代前半くらいまでには、自分の中にかなり具体的な人生の目標を持つ様になっていると思われます。もちろん、色々な人生経験の中で最初に描いた目標が自分に合っていないと気づいたり、何かの機会に別の目標を見つけたりして軌道修正する人も沢山います。その場合に新しい目標が最初のものと全く異質のものであっても、若い時間を一つの目標に向かって進んだ経験は無駄になっていないと思われます。
冷静に考えれば合理的で必然性のある社会のルールに従うことを求められるとほぼ毎回強い拒絶感を覚えます。特に、隠していたルール違反が発覚して改善を求められた時(必ずしもきつい咎めを伴わなくても)激しい反発感の情動が発生し、時にキレることも少なく有りません。
要するに問題の本質は「自分だけ特別扱いして欲しい」という甘えだろうと思います。そういえば「甘え」という言葉を自分と関係ない他人に向けて批判的に使うこと自体にも反発感を感じます。
数年に亘り、概ね週二回(原則として1回1時間)ペースで臨床心理士のカウンセリングを受けていますが、最近「これ以上やっても効果が上がりそうも無いのであまり意味が無いのでは?」というようなことを言われています。とりあえず「カウンセリング拒否」はされませんでしたが、少し冷却期間をおくということで2か月カウンセリングを中断して1回だけ面談して終了となりました。
別のところで心療内科医のカウンセリングも受けています。こちらは費用が高いので2か月に一度程度です。傾聴型のカウンセリングで、こちらの話はよく聞いてくれるのですが、先生の方から発言されることは少なめです。自分で言葉にすることで整理出来ることも少なくありませんが、専門家としてのアドバイスをもう少し聞きたい、という気持ちもあります。
カウンセラーから好意的に見られなくなった理由の一つに「共依存願望がある」ことを顕らさまに宣言したことがあると感じています。いい歳をして「共依存体質」なクライアントはカウンセラーとしても扱いにくいのかもしれません。
個人的には家族関係の問題で、「甘えても良い年齢」の時に十分に甘えられなかったことが一つの原因と考えていますが、青年期(20代又は30代あたりでしょうか)に自力で克服するべきだった、という考えのようです。
この点は自分自身も問題を自覚するのが遅すぎて、解決を難しくしたという自覚があります。問題は今から老年期に向けて、少しでも活きづらさを解決できるか、ということです。この点について現在のカウンセラーは「本人次第」という突き放した対応です。これは、現実に本人が自覚する以外他者にはどうすることも出来ないことなのかも知れません。
うつ病の人は発症前より「吝嗇(りんしょく、けち)」になる場合が有る、という話を聞いたことがあります。私自身は明確に「うつ病」と診断されたことはありませんが、「うつの傾向がある」とカウンセリングで言われたことはあります。
むしろ前述の「自己肯定感の低さ」と関連がある様に思っています。また、最初の交際相手の家庭の経済状況がかなり厳しいものであったということとも関係あるかもしれません。
さらにさかのぼると、いろいろな価値観が形成される小学生~成人までの期間を通して、父が病気がちなこともあり家計に余裕が無い中で育った、ということも間接的に影響している可能性があります。
だれしも思い通りにならない時に程度の差はあれ不機嫌な感情を持つことはあると思います。しかし、いい大人が人前であからさまに不機嫌を態度で表明するのはみっともないことと思われます。
対象があまり重要なことでない場合、周囲は面倒くさいから相手にせず放置されることもありますが、決してわがままが許された訳ではありません。「あの人はその程度の人」という評価が定まり、自然に距離を置かれるようになって孤立していきます。
不機嫌の原因がそもそも「不快と感じる閾値が低い」ためなのか「不快な状態に対する耐性が弱い」のかという疑問もあります。一つの答えとして、「不快な状態に耐える経験が、不快の閾値そのものを引き上げて行く」という「成長モデル」が考えられ、不機嫌になりがちな人はこの「成長モデル」に乗れていないのでは、と感じることもあります。
ここまで一般論のように書いてきましたが、これは自分が少年期から現在に至るまで続けてきたことに他なりません。そのように振る舞った結果として「得をした」ことなど一つも無いといえるのに治すのは大変困難です。
元々は「アルコール依存症の親の元で育てられた、成人した子ども」という意味の英語だそうです。「アルコール依存症の親の元で育てられた」の部分が切り落とされ、単に「成人した子ども」という部分が残ったようです。意味としてはアルコール依存に限らず、何らかの問題を抱えた家庭(「機能不全家庭」ともよばれます)に育ち、成人後もその心の傷に苦しめられている大人達を指します。
念のため申し上げますが「アダルトチルドレン」は精神疾患系の病気ではありません。したがってそれ自体は医療の対象となる物でも有りません。あくまでも上述した様な、生育期の家庭環境に由来する心身の「不具合」を指し、具体的には対人関係がうまく構築できない、過度なおびえなどの「生きづらさ」として現れます。この不具合が日常生活に支障を来したり、本当の精神疾患を起こす様な状態なら、カウンセリングや治療の対象になるでしょう。「機能不全家庭なんてどこにでもある」というような冷笑的な意見を目にしたこともありますが、対人関係に支障を来すほどの「活きづらさ」を招くほどの状況というのは決して「どこにでもある」訳では無いと考えられます。
両親が不仲で、家庭内で一方が(あるいは両方が)相手に対して怒鳴りつける、という環境下で育つと、自分に向けられたものでなくても「大きな声」や「厳しい口調の言葉」に怯えるようになる、ということが起こりえます。この場合、言っている内容が正しいかどうか、言われている側に客観的に非があるかどうか、を考える前に「きつい言葉」自体に恐れをなしてしまいます。
アダルトチルドレンが家庭を持ち子育てをした場合、時として(もちろん必ずという訳ではありません)無意識のうちに自分の子どもがアダルトチルドレンになる様な育て方をしてしまうこともあるようです。その場合アダルトチルドレンが「再生産」されてしまうことになります。
私自身、「ある事情(詳しくは書きません)」から、両親が極めて不仲な環境で育ち、まだいろいろな道理の判らない5歳くらいから小学生の頃、家の中では母が父を罵倒するのを度々見ています。父は決して言い返さず、暴力も振るわず完全に母の言葉を無視していました。これは必ずしも母の方が悪かった、ということでは無く、父の方が無責任であった部分もあります。この問題については、(もし機会があれば)改めて別に項を設けたいと思っています。
アダルトチルドレンは、いわゆる「他罰的」とよばれる、『何か問題があると自分以外の誰かの責任にしたがる』人間になる可能性も高いと考えられます。アダルトチルドレンの親は、理不尽に子どもに厳しく当たる事が多々あります。教育的な理念やしつけというのは後付けで、大抵は「自分自身の思うように自分の子どもが行動してくれない」ということへの苛立ちが原因です。繰り返し理不尽な叱責を受けると、言い訳が多くなったり、咄嗟に自分以外の誰かに原因があると主張するようになります。自分がちょっと反省して意識すれば次から失敗する確率が大きく下がるとしても、ゼロに出来る自信が無い以上、「これは自分の責任ではない事」にしておかないと「また次に同じ事が起こり同じように叱責される」ということに怯え続けることになります。
いわゆる怠け者、最小の労力で形だけ「やったふり」をしたがる傾向があります。時には「チートモード」に走りたがることもあります。
十分時間があっても締切間際にやっつけ仕事をすることも多々あります。時間があると丁寧な仕事をせざるをえなくなる、またはやり直しを指示されるので、わざとぎりぎりまで手を着けないという感じです。
この「チートモードでやったふりをしたがる」ことの最大の悪影響は「実際にエネルギーをつぎ込んで何かを成し遂げることで達成感を得る」という経験を知らないまま人生を過ごす、ということです。これが自己肯定感の低さにつながり、ますますやる気を無くして怠惰になってゆくという負のスパイラルを産んだと思われます。
上記の問題の多くが「自己肯定感の獲得に失敗したこと」と関連していると感じています。この切り口で別に章を改めてまとめてみたいと考えています。(2020-12-21)
* MEMO * https://twitter.com/shu_yamaguchi/status/1437190480182198281 「頑張る人」はなぜ「夢中な人」に勝てないのか?つらつら考えるに、それは「累積思考量の圧倒的な違い」ということになると思います。 https://togetter.com/li/1774289 塾講バイトで死ぬほど味わった「絶対に勉強が伸びない子供」、勉強に対して喜びも悔しさも感じない「頑張れない層」の話 - Togetter
私が親の遺産を前提に人生設計をしていることを知って嫌がらせをしてきた
父から「お前に遺産が一切渡らないよう死ぬまでに全財産を使い果たす」という脅しを掛けられたのを真に受け、右往左往してしまった
母から「上部の人間が本当に邪魔だと思って切ろうとしてきたら、身分保障なんて当てにならない」という脅しを受けた
成人してもおびえて親離れできなかった(精神的な意味で「ストックホルム症候群」になっていた?)
「自分が本当に欲しいものは何であるのか」、ということをきちんと考えることがなかった
本当に欲しいもの、成りたい状態に到達するために必要なものをリスト化し、着々と手に入れていくという行動が出来なかった
上手く行っていないと感じたときに、自分のやり方に疑問をもち立ち止まることもなかった
バスカフェで話題になってる活動家、ある人経由でリツイートが自分のタイムラインに時々流れてくるが、タイムラインを読むでもなく眺めているだけで気分の悪くなる単語が嫌でも眼に入ってくる
自分自身が、『「あの人」個人に限らず、同様の活動をしている人たちが、敵視している一団』に含まれているのだと気付く
両親ともに自己満足でやっていたわけではないのは信じているし、特に英語については基礎をきちんと勉強させてくれたことに感謝している。
父は理系で小さいときから化学、地学などに興味を持つきっかけを与えてくれた。しかし本人が理学部なせいか「技術的なもの」を蔑視する傾向があった。
「試験で点を取ること」「入学に必要な学力が高い学校に入れること」に力点を置きすぎて、本当の勉強のおもしろさ、を考える機会すら与えられなかった。
他人に対して自分の方が「優位」である、ということを(地位などの根拠がないのに)周囲に対して示す行為です。「マウンティング」の方が正しい表現かも知れません。
父は会社や私的な人間関係で頻繁にこれを行い、いろいろな人たちから疎まれていたようです。私自身も無意識のうちにその様な行動様式を身につけていたようで、上述の様々な人間関係における不具合の底流となっていたという自覚があります。これはこれまでの人生において大きな負の作用をしてきましたが、明確に自覚するようになったのはかなり最近のことです。
なにか問題が発生しているときに「問題は起きていない」と考えたい「願望」を、根拠無く正しいことと思い込んでしまうのが正常性バイアスです。物事を勝手に自分に都合良く解釈したり、危機的な状況を正しく認識できない、というのは多くの人にありがちなことですが、願望と事実を切り分け現状を正しく認識する能力こそが「知力」(または「智慧」)といえると思われます。
この知力は持って産まれてどの程度具わっているか、個人差が大きいのは事実であると思われます。しかし意識して「常に真実を見る目を持ち続ける」ことでこのバイアスを軽減できると思われます。
自分はその様な努力を怠ってきたため、強い正常性バイアスに冒されている様に感じます。